この文章を書いている当日の朝5時頃に僕の祖父が亡くなった。91歳だった。
母のもとに「祖父の呼吸が止まった」との連絡が届き、家族で急いで支度してホスピスに向かった。そこにはまだ手に温もりがあるが動かなくなった祖父がいて、なんだか先日お見舞いに行ったときよりも肌が黄色く見えた。口の中が乾燥していたのだろう、唇には乾き切れてかさぶたができていたが、眠っている間にスッと息を引き取ったのだろうと思われる優しい表情をしていた。
僕は父方の祖父母と会ったことがない。中学生ぐらいまで父方の祖父母という存在があるのだと言う事実が頭に浮かんだことすら無かった。だから僕にとっての「おじいちゃん、おばあちゃん」とは母方の祖父母の2人だけである。
祖父がどんな人であったかを孫の視点で語るのは難しいが、少なくとも僕にとってはとても良いおじいちゃんだった。幼い頃は祖父母の家に行けばいつでも遊んでくれたし、大人になっても僕の仕事のことや将来できるであろう家族のことについていつも心配してくれた。「早く彼女を作れ」「お嫁さんはまだか」とちょくちょく言われはしたが、僕はそれが決して嫌ではなかった。また祖父は博識であり、かなり広範囲に渡る地域の人間関係に非常に詳しかった。きっとそれは祖父のかつての仕事で得た財産なのだろう。
かつての祖父は家族の中で唯一タバコを吸う人だった。我が家の一室は祖父が先生を務める三味線教室のお稽古部屋だったのだが、そこはタバコと消臭剤の匂いでいっぱいだった。晩年はタバコを吸っていなかったが、完全に禁煙する前はお稽古部屋で隠れて吸っていて、それは周知の事実だった。僕はタバコの煙や匂いがとても苦手なのだが、祖父や教室から香る匂いは「祖父の匂い」として僕の中に刻まれている。僕にとってその匂いは決してタバコの匂いそのものでは無く、そして嫌いではなかった。今でもじっくり嗅げば壁紙からその匂いがするかもしれない。耳をすませば三味線の音が聞こえてくる気さえする。
祖父は若い頃からとても新しいものが好きだったらしく、田舎住まいなのに近所で一番最初に洗濯機を買ってきて、祖父の母に「恥ずかしいから返品してこい」と怒られたりしたらしい。車も好きで、最初のマイカーは「愛知機械工業の4輪のコニー」だったと本人から聞いた。シトロエン2CVに乗ってみたかったという話を免許返納する数年前に母から聞いたので一時は2CVを探していたが、案外高くて諦めた。頑張れば買えない値段ではなかったのだから、今思えば一瞬でも良いから買っておけばよかった。きっと祖父の喜ぶ顔と、祖母の呆れ顔が見れただろう。
祖父は変わった食べ物も好きだった。母も僕も割と変な食べ物に抵抗が無い人だが、母の弟、僕の叔父はそういうものは口にしない人なので、あまり祖父母の家で積極的に変な食べ物は出てこなかったようだ。祖父母の家で焼き肉をよくやっていたが、祖父は特にホルモンが好きだった。それもほぼ生同然の状態を好んでいた。祖父は「ホルモンが焼けたぞ」と僕によく声をかけてくれたが、その状態のホルモンは噛み切れないし、何よりお腹を下しそうで怖かった。僕はコソッとそのホルモンを焼き足していた。
三味線教室を閉じた後、祖父はデイサービスに通うようになったらしい。歌の先生でもあったので、そこで出会った新たな友人とカラオケを楽しんでいるのだという。しかしある時から次第に通わなくなり、ダルいと言って家から出なくなっていった。この頃から少しだけだが認知症が始まっていたように思う。
去年の祖父はあまり体調が良くなかった。高齢ということもありほぼ毎週のように病院に通っていたのだが、いっとき検査を含めて入院していた。かなりシャキッとしていた人だったが、無駄に長引かされた入院生活で祖父の認知症が少し進んだようで、僕ら家族は病院に対して怒りを覚えた。
そして去年の年末に家族一同でお泊り会をしたのだが、その時の祖父はあまり調子が良さそうではなかった。話はするものの倦怠感がある様子で、食欲もあまりなかった。大好きなホルモンはそこにはなかったが、同じぐらい好きなお肉もさほど食べれてはいなかった。
事態が急変したのは年が明けて1週間ほど経った時だった。祖父があまりにご飯を食べないことを心配した祖母が病院に連れて行くと、あれよあれよと救急病院に連れて行かれ、入院生活が始まった。病名は膵臓がん。末期のステージ4で、余命はあと1ヶ月だという。母はその話を聞かされ酷く動揺したため、少しして自分の中で落ち着いてから僕や兄弟に伝えてくれた。僕は母からの連絡が遅かったことに少し苛立ちをあらわにしてしまったが、その時は僕も冷静ではいられなかったのだと思う。そもそも毎週病院に通って色々検査させられているのに、やはりヤブ医者だったのか、などと頭の中では色々なところに苛立ちが飛び火していた。
救急病院の後には少し大きい病院に転院されたが、インフルエンザが蔓延している時期的な問題もあり、面会には色々と制限がかかっていた。僕が初めてお見舞いに行ったのは、祖父が入院して2週間が経とうとした頃だったと思う。
その頃の祖父は明らかに僕が知っている祖父よりも弱っていたが、まだはっきりと話しをすることが出来た。病院の飯がまずいという話から祖父の昔話までおしゃべりを楽しんだが、あまりご飯を食べられず、痩せこけた祖父にとってたくさんのおしゃべりは少しキツそうだった(この日はまだ調子が良かったが)。その時初めて祖父がもうすぐ死ぬのだとはっきりと理解した。祖父の死はすぐそこに迫っている。祖父には会いたいが、正直に言えばあまりお見舞いに行きたくなかった。弱っていく祖父を見るのが僕にはとても辛かった。
母と祖母は毎日のようにお見舞いに通い、祖父の様子を家族に話してくれた。どうやら祖母にしか見せないような甘えや悪態をつくらしい。「あんなに元気に話ができる祖父がもうすぐ死ぬなんて信じられない」と母は何度も話してくれた。僕は口が避けても「明日にでも死にそうに見えた」とは言えなかった。
母が毎日のように祖母とお見舞いに行くため、家庭内の雰囲気もいつもと少し変わっていた。特別に何かが変わった訳では無いが、「祖父が今すぐにでも死ぬかもしれない」というなんとも言えない緊張感が、少なくとも僕の中にはあった。家族以外に祖父の状況は伝えていないが、仕事はあまり身が入らず、準備まではしても遊びに行く気になれなかった。自分が遊んでいる間に祖父が死ぬのが心から恐ろしかった。
病院から緩和ケアのホスピスに移った時、祖父は自力で動くことがほぼできなくなっていた。幸いなことに体の痛みなどはないようだったが、意識が飛び飛びになり、ほんの短い時間にも起きたり眠ったりを繰り返していた。か細い声で「迷惑かけてすまんな」と言う祖父を見るのはただただ辛かった。
緊急入院してから1ヶ月と1週間が経った時、祖父はホスピスで早朝に息を引き取った。祖母と母は祖父を一人で死なせてしまったことを酷く悔やんでいた。しかし、戦時中に生まれ激動の時代を生きた祖父にとって、一人で眠るように死ぬのは、家族に心配をかけまいとする男らしさを示すための確かな矜持であったのではないかと思った。僕は幼かったので覚えていないが、祖父の父も自宅で眠ったまま朝に亡くなったという。
祖父の死を確認して12時間ほど経った今、ティッシュを片手にこの文章を書いている。しかし「今すぐ起こるかもしれない祖父の死」に怯えることはなくなって、正直に言えばホッとしている。僕は仕事なんてする気が起きなくてこんな文を書いているが、裏では祖母や叔父がお通夜やお葬式の準備をしている。ちょうど明日が友引なので、通夜を明日、お葬式を明後日にするらしい。葬式屋いわく「葬式の時間は火葬場の空き次第」とかで、お寺さんを含めて色々と調整が必要なんだそうだ(この時点ではもうとっくに終わっているが)。もしかすると葬式というのは、残された人たちに忙しさを与えることで、悲しみに浸る時間を埋めさせるものなのかもしれない。そうでなければあまりにやることが多すぎる。幸いなことに僕は友人の葬式に出たことはないので、黒いネクタイは一本も持っていない。本当はもっと早くに用意しとくべきだったのだが、今日までそんなものを用意したくなかった。
僕の知っている祖父にはたくさんの友人がいたはずだが、91歳にもなると知人やご近所さんの同年代はみな亡くなっているようで、葬儀は家族葬でするのだという。葬儀の金額には正直驚かされたが、我が家の長として立派に送りたいという祖母の希望を叶えることが一番良い。
祖父は決して歴史に残るような人物ではなかった。しかし僕ら家族にとっては偉大な男であった。おじいちゃん、今まで本当にありがとう。

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